豊島逸夫の手帖

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性善説から性悪説へ

2006年1月13日

マンション偽装事件で監督責任を問われ、"チェックは性善説に基づいており、偽装を想定する性悪説は考えていなかった"という答弁が見られた。

そこで思ったことは、今、金が注目され売れているという現象も、資産運用の世界で性善説から性悪説へ視点がシフトしている故ではないかということだ。

いま、金需要が高まっている背景に信用リスクの高まりという要因がある。信用不安あるいは信用破綻の連鎖が、実物資産への回帰現象を生んでいるわけだ。金は"誰の債務でもない"ので、現物であれば信用リスクはない。

その信用リスクというのは、性善説にたてば想定外のハナシである。エンロン事件に代表されるような、不正融資スキャンダルに発展した粉飾決算とか背任行為とか民法上の不正行為など、信用不安の源は、性善説にたてば、ありえない、あってはならないことなのだ。それらは、従来、資産運用の世界ではイベントリスクといわれ、地震などの天災と同じ扱いで、仮にその結果、資産価値が減価しても"しょうがない、運が悪かった"とあきらめることが当然とされた。

けれども、いまや虎の子の年金資産まで自分で運用管理せねばならぬ時代に突入すると、個人投資家だっていつまでも性善説というような美しい言葉であきらめる訳にはゆかない。

よく考えてみれば、欧米の資産運用の世界ではそもそも性悪説が当たり前なのだ。分かりやすい例で言えば、筆者の在籍したスイス銀行の書類は全てダブルサインつまり二人の担当者のサインが必要であった。江戸時代の隣組の発想と同じで、行員同士監視させ不正を防ぐわけだ。(これ行員の立場に立つと、お互い疑心暗鬼になって、特に性善説に慣れた日本人にとっては実にいやなものだったよ。)

日本の銀行も近年さまざまの経験を経て厳しすぎるくらいのコンプライアンスを徹底させるようになった。これはまさに性悪説への移行そのものといえよう。事態がここまでに至ると個人投資家のマインドも性悪説にシフトせざるをえない。

有事の金というような言葉も従来の日本人にはピンとこなかった。それが、北朝鮮の拉致とか中国の反日運動を見せつけられるとジワーンとその言葉の重みが感じられるようになる。信用不安に備えて金をいくらか保有するという発想にもジワーンと共感を覚えるようになる。

金=資産という考えは、スイスという四方を地続きの国境に囲まれ性悪説が当たり前の国で普及したことなのだが、ボーダレスの時代になると日本もスイスも同じ立場。どちらもグローバルな世界のなかの一国に過ぎない。その日本で金が普通の資産になりつつあるのも当然の成り行きなのかもしれない。

2006年