2009年10月6日
いまや全てのマーケットでドル安がテーマになってきた。昨晩のNY株はダウで100を超す上げとなったが、その主因はドル安。日本株が円安で買われるのと同じ発想である。ドル安は米国製品の国際競争力向上を意味するのだ。さらに、ドル安→商品(コモディティー)高→商品関連株上昇というセクター物色も見られる。
一方、外為市場では、株高→投資家は思い切ってリスク取るようになる→避難通貨(或いは安全通貨)ドルに頼る必要は薄れドル安、という解釈が語られる。要は、株高がドル安要因とされるのだ。株式市場は外為市場をウオッチし、外為市場は株式市場をウオッチする。
さらに、株と商品の関係について見ると、昨晩は株も商品も上昇。Liquidity rally(流動性相場)と言われるが、金融の超量的緩和と財政赤字がもたらした過剰流動性が引き起こした現象である。
しかし、株とドルの関係も、株と商品の関係も、日々移ろいやすいもの。結局、後講釈の域を出ず。個人投資家が、その「相関関係」を数学教科書の公式みたいにアテにするのは極めて危険である。プロは、昨日は昨日、今日は今日と割り切ってしまう。(まぁ、割り切れなくては、やってられないよ。)
さて、最近の金価格を見て、今更のように思い出す相場格言が、「相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、歓喜の中で終わる」。1999年に250ドルの底をつけた時は、欧州中央銀行の金大量売却の波の中で市場は総悲観。新聞にも「金価格200ドル時代」とか「構造的供給過剰の中で長期低迷する金価格」という見出しが躍った。金ディーラーも鉱山会社に、金価格はもっと下がるから今のうちに先物で売りなさいとヘッジ売りを勧め、その手数料で潤っていた。だから、欧米投資銀行系のアナリストは、おおむね弱気のポジショントークを語る時代でもあった。
しかし、その総悲観から相場は反転。1000ドルに至るまで、こんなに金価格が高くなるはずはないという「懐疑」の中で、スクスク育ってきた。そして、1000ドルを突破した今、投資銀行の短期価格予測が次々に強気のトーンに塗り替えられている。相場のバックグラウンドミュージックに、ベートーベンの「歓喜の歌」が流れてきそうである。
歓喜の中で、どうやら史上最高値1034ドルの更新も実現しそうである。いずれ総楽観になったところで相場は反転しよう。昨日の本欄で「表層雪崩警報」を発したが、警報が出てもドカ雪が止むわけではない。そして、表層雪崩の規模は、新雪が積もれば積もるほど大きくなるであろう。
ただし、ただしである。相場は総楽観の中で一転、長期下落傾向に転じるのかと言えば、そうはならない。あくまで第一幕が終わるだけの話。ピークから急反落して、メディアには「金の輝き失せる」というようなヘッドラインが躍る「悲観」の中から第二幕が始まる。
商品相場はcyclicalな循環相場(上がったものは、いずれ下がり、振り出しに戻る)と説くひとが未だに多いが、そういう見方は市場のパイが広がらない「静的」な状況を前提にしてのこと。昔ながらの発想から抜けきれない人たちの考えなのだ。今は、新興国が長期的には世界経済のパイを拡大する成長経済の時代。「動的=ダイナミック」な前提で考えねばならぬ。下がっても、下値が、昔では想像できなかった水準にまで、かさ上げされている。
なお、この「静的商品サイクル」と「動的商品サイクル」のイメージ図が、拙著「金を通して世界を読む」の23ページに載っているから改めて見直していただきたい。