2008年4月8日
ロンドンエコノミスト誌の今週号の表紙は、落ちて砕けた貯金箱が修復されたイラスト。欧米では、貯金箱というと何故か"子ブタちゃん"なのだ。それにしても、今のマーケットの状況を見事に描いているね。巻頭社説も"fixing finance=金融の修復"と題し、読み応えがあった。かなり練った文なので筆者も2回読み直したが。そこで考えさせられたことを、まとめてみた。
今回の金融危機は、ゴールディロックス経済と言われたように、適度で心地よい経済成長を続けた世界経済の中で、人々がfalse sense of security=すっかり安心しきってリスクに鈍感になってしまったことが、その根源にある。そこには、アダムスミスの"見えざる手"=価格機能で、マーケットの需給には自動調整メカニズムが働くという大前提があった。そして、マーケットの売買は、参加者の間の信頼関係があって成り立つシステムでもあった。
ところが、サブプライム禍により、マーケットのself-healing power=自己治癒能力には限界があることを思い知らされた。噂で大手証券会社に取り付け騒ぎが起き、人間の信頼の脆さも見せつけられた。お互いの台所を知る親類には100万円など絶対貸さない人が、ハイイールド(高利回り)という、人の心をそそるようなネーミングの債券を中身もあらためず買い漁った。ところが蓋を開けてみればハイイールドとはジャンク債の別称であった。これも人間の信頼とはいい加減なもの、という例であった。
結局、最後は、公的部門が介入して、FRBが証券会社にも"特融"するというようなウルトラCを連発して、砕けた貯金箱が修復された。政府の規制を排する自由主義の市場原理が否定されたのだ。今、ウオール街では、FRBの監督権限が強化されたことについて様々な議論が交わされている。これで良いのか。規制が強まれば、経済は停滞する。危機を恐れずに新たに立ち向かう姿勢も必要なのではないか。
同誌社説は、こう書いている。Crisis is the price of innovation.=危機は、革新の対価である。けだし名言であろう。革新の対価としての危機が生じてしまって初めて、公的部門の出番となるべきではないか。羹(あつもの)に懲りて膾(なまず)を吹くような"金商法"の例とか、米国のSABOX法の弊害は、イノベーションの芽を摘んでしまう。グリーンスパンさんも言っているではないか。人間の欲望がある以上、バブルなど防げるわけもない。マーケットには、やるだけやらせて、あとの始末をFRBがやればよい。
熱過ぎず、冷た過ぎずの適温経済=ゴールディロックスは今や死語になったが、2008年版のゴールディロックスは、きつ過ぎず、緩すぎず、丁度いい塩梅の規制の下の成り立つのだろう。けれども、同誌は、It is a nice idea , but it is a fantasy. とても良い考えだけど、所詮、夢物語とバッサリ。規制当局に働く人間の年収が、規制される側のウオール街に働く人々の10分の1以下では、お話にならない。ごもっとも...。
本欄では、これまでバーナンキさんを医師に、サブプライムをウイルスに、べアスタ破たんを心筋梗塞に、救済策を副作用ある劇薬に、それぞれ譬えてきた。最後は、アメリカ人のメタボ体質という生活習慣が治らなければ、いずれ再発もあるとも述べてきた。
今や、一時危篤状態でICUに隔離されて集中治療を受けていた患者が、やっと一般病棟に戻った。まだ、腕には点滴針が挿入されたままだ。晴れて退院はいつの日か。自宅に戻っても、メタボ生活を止められる意志が続くのか。当面一月に一回は来院して術後の経過をチェックせねばならぬ。そのカルテは、FOMC議事録という形で、個人情報扱いとはならず公表される。
子ブタちゃんの貯金箱も、名匠の手にかかれば立派に修復されよう。最後は人間の叡智を信じたい。それをどうしても信じられなければ、人間の支配の及ばぬ価値にすがるしかなかろう。