豊島逸夫の手帖

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私の相場人生

2015年10月21日

私の相場人生の発端は、18歳のときに患った大病だった。両胸自然気胸という、両肺が同時につぶれて、パンクしたタイヤみたいになり、その場で、ほぼ窒息死状態。気が付いたときは、緊急病棟。「あ、まだ、生きてる。」と看護婦さんが叫んだことを覚えている。チアノーゼも出たそうで、家族親類たちが長男の臨終覚悟で病室に集まっていた。そんな究極の状況から生還したので、一度死んだあとの「おまけの人生」と割り切って、やりたい放題の「第二の人生」が始まった。

新卒で入行した邦銀をあっさり辞め、スイス銀行に拾われ、外国為替貴金属部に配属された。チューリッヒの巨大なトレーディング・ルームのなかで、ドルや金の投機的売買を身体で覚えさせられた。

同僚トレーダーの半分以上は高卒。爾来、私は学歴のお世話になったことがない。スイス人の先輩から、相場は理屈ではない、まずは、損切3年、とか言われ、リスク耐性を鍛えることから始まった。大手邦銀出身の銀行マンとしては、まさにカルチャー・ショック。えらいところに来てしまった、と当初は思ったが、これも、後々、有難い体験として、感謝、感謝であった。特に、スイス銀行は「トレーダー養成工場」といわれ、スイス人・米国人同僚・後輩たちが、後々、ヘッジファンドや政府系ファンドにリクルートされて世界各地に散ったので、未だに、横のつながりが深い。今では、貴重なグローバル・マーケットの情報ネットワークとなっている。日本株が動くと、NYでの「勉強会」と称する「同窓会」みたいな集まりに招かれる。今年7~8月の外国人投資家による記録的日本株売り越しを、7月初めの段階で予見して電子版ブログに書いたのも、その「同窓勉強会」が急にキャンセルになったことで、異変を感じたからだった。

ニューヨークやシカゴに配属されて、通貨・商品先物の取引所フロアーで働いたことも、今となっては、貴重な体験だ。後にも先にも、日本人で、NYMEXピットの「肉弾戦」を身を持って経験したのは私ぐらいのようだ。騒然としたフロアーはとにかく埃っぽく、スニーカーで走り回る。まず慢性鼻炎になり、更に、アメフトの選手みたいな米人フロアートレーダーにタックルされ、文字通り空中に吹っ飛んだこともある。その時は、さすがに悪いと思ったのか、私を助け起こしてくれ、それが縁で親友になってしまった。ハーバード卒なのだが、父の遺産をもとでに、自己勘定で相場を張る「ローカル」といわれるプロの投機家だった。まだ30歳前半で、別荘・高級車そして複数の美人ガールフレンド。これが、アメリカン・ドリームかと憧れ、ついつい相場生活に長居してしまった。

しかし、相場はそれほど甘くないことを、いやというほど思い知らされることになる。

今と違って、大手投資銀行内でも、積極的にリスクをとることが当たり前。リスクをとれない奴はディーラーではなくブローカーといわれた。大きな組織だが、意識は「豊島ディーラー商店」みたいなもので、毎月、どれだけ儲けるか。数字が全ての世界。そこで3000回は相場を張ったが、生涯星取表は1600勝1400敗。8勝7敗を12年続けることが、どれだけ大変なことか。2連敗したら3連勝しないと勝ち越せない。そのときのプレッシャーは、やったものでないとわかるまい。ストレス性不整脈や急性胃炎が「労災適用」みたいな職場環境だった。

自分が儲けているときは、誰かが損している、いわゆるゼロサム・ゲームの虚しさを痛感したものだ。

そんな体験があればこそ、今、独立して自由な身になり、素人がレバレッジ投機することが、どれほど無謀な試みであるか、を説いている。それで儲かるのは業者だけだ。日経マネー主催で、セゾン投信中野さんやコモンズ投信渋沢さんと「草食投資隊セミナー」をやったこともある。私だけではなく、プロの自分の資産運用は意外に地味で、積立などが多いもの。

とはいえ、いまだに、相場が荒れると、アドレナリンが自然に出て、カラダがほてってしまう。Once a dealer, always a dealer. 一度ディーラーの「苦界に身を沈める」と、一生抜けられない、との相場格言をヒシヒシとかみしめている。

2015年