豊島逸夫の手帖

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私の相場人生

2020年7月6日

私の相場生活はチューリッヒに始まる。いきなりスイス銀行外国為替貴金属部のトレーディングルームに配属された。チューリッヒでは銀座4丁目にあたるパラデプラッツに面した9階にあった。

いきなり円換算で10億円ほどのポジションを持たされた。「まずは損切3年」と言われた。相場など理屈ではない。実戦あるのみ。一橋大経済学部卒など学歴など全く関係ない。リスク管理やコンプラに縛られる今のトレーダーとは正反対で、とにかくリスク取ってポジションを持てとドヤサレ続けた。ポジション持たずにウロウロしていると怠け者扱いされた。2年ほどでどうやら損切が自然に出来るようになった。そこから鰻調理人で言えば串打ち3年、裂き8年、焼き一生のキャリアが始まったのだ。

損切の次は利食い。これが苦労した。己の欲との闘いだ。
5年かかってどうやら滞りなく売買を執行できるまでに成長した。

トレーディングルームでは連日「喧嘩腰」だった。スイス人、中国人、中東インド系、アメリカ人などのトレーダーと渡り合う日々だ。実は筆者は若い頃に米国人女性、それも我がままいっぱいに育てられた娘と同棲したことがある。毎日英語で喧嘩の日々であった。その時は何と生意気な女子か。我は大和男子なるぞと粋がったが、この喧嘩英語が後日トレーディングで大いに役立ったのだ。心の中でその米国人女子に「ありがとう!」と叫んだものだ。但し私生活では妻は絶対日本女子と決めた。

チューリッヒで一応一人前のトレーダーとなったら、次はニューヨーク勤務を命ぜられた。そしてニューヨークに着任したら、いきなり金・原油の商品取引所(NYMEX)の場立ちに出向させられた。これが後年、金に深入りするキッカケになったのだ。

殺気立つフロアーは肉弾戦だった。スニーカー着用がルール。埃っぽくていきなり慢性鼻炎になった。体格がか細い筆者などウロウロしていると、アメフト選手みたいな米国人フロアートレーダーにタックルで吹っ飛ばされてしまう。実際に2メートルほどぶっ飛ばされたことがあった。さすがに相手が悪いと思ったのか謝りに来た。その男がまさか生涯の友となるなど思いも及ばなかった。聞けばテキサスの大牧場の息子でハーバード卒。自己資産で自らリスクを取り、フロアーで売り方、買い方に廻る「ローカル」という存在だ。市場流動性維持のためには欠かせない存在だ。若干30歳そこそこで大成功をおさめ、高級外車3台、マンハッタンの高級マンションに毎晩美人のガールフレンド3人が入れ替わり出入りする。これがアメリカンドリームだと思った。自分もそうなりたいと心に誓った。

米国証券取引所(NYSE)フロアーにも出向した。

シカゴではカーギルという穀物系商社でトレーニーとして働いた。

そこでプロフェッショナルなスペキュレーター(投機家)の存在を知った。仲良くなったスペキュレーターの自宅に招待された。子供たちが3人。授業参観で親の職業を自ら語る時には、胸を張って「スペキュレーター」と自己紹介するのだそうだ。農家は3月に種植えして9月に収穫する。3月の時点で栽培する作物の売値が確定できれば農家経営は安定する。そこでスペキュレーターが自己リスクで買い手に廻ることで、立派に社会的責任を果たしているのだ。日本流の怪しい「投機家」しか知らなかった私はこれぞ商品先物の原点と感じ入った。

その後、株や債券でも同様の経験を積み、得難い体験をさせてもらったと思っている。後にも先にも、日本人として、本当の意味でフロアートレーダーとしてNYやシカゴのピットを駆け巡り、カラダで相場を体験できたのは私だけだろう。

今回のコロナ騒動を機に、最後まで残ったNYSEのフロアーも多分閉鎖されることになりそうだ。
相場の修羅場を潜り抜けることで、真のマーケットの神髄を体験させてもらったことには本当に感謝している。
おかげ様でコロナに激動するマーケットにもひるむことなく対峙できている。まさに人類未体験ゾーンゆえ、チャレンジ精神を掻き立てられているところだ。





 







2020年